シューベルトの生涯

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「歌曲の王」と初めてシューベルトを呼んだのはベートーヴェンだったそうです。呼んだというより予言したんですね。

「君はやがて歌曲の王と後世の人間に呼ばれるだろう」

ベートーヴェンにまでそう言わしめるシューベルトですが、最後の交響曲である「グレート」が発見されたのは、死後でした。
その交響曲は世に発表すらされていなかったわけです。

シューベルトの死後、彼を敬愛していたロベルト・シューマンがシューベルトの兄・フェルディナントの家を訪ねたとき、シューベルトの部屋に生前と全く同じように置かれていたそうです。
そういう曲がシューベルトにはかなりあります。後から後から出てきたわけですね。それが、彼の評価を難しくしているわけです。

つまり、当時、音楽界では知る人ぞ知るでしたが、実際に彼の研究が本格化したのは20世紀でした。
しかし、彼の文献はほとんど残っていないということで、後世の研究者たちは混乱します。そして、徐々に彼の評価は不動のモノとなり、彼の天才が世界に知れ渡るのは20世紀中旬になります。

肖像画は残っています。男前の顔で。
当時、名誉ある人間の肖像画は本人の3倍増しで書いてもらえたようです。
つまりシューベルトは非常にブオトコだったという説もあります。
「ちび、でぶ、禿げ。」とにかく女性にモテない。振られてばかり。コンプレックスの塊のような男。シューベルトは過去に2人の女性に振られた、という文献があります。しかし他は何も定かではありません。

Franz_Schubert

さて、顔の話は別にして、「シューベルティアーデ」というパーティー、会合があったようです。
これはシューベルトをリスペクトする芸術家が集まってやんややんやと議論し、飲み明かす緩やかな会合、パーティーだったようです。
そこで彼は新曲を続々と発表しました。
シューベルトは当時ウィーン音楽界のみならず、市民からも高く評価されていたのでしょうか。それとも、芸術家による「知る人ぞ知る人」のみの評価だったのか。しかし、少なくともベートーヴェンやモーツァルトのような知名度はなかったのは確かです。

彼の生い立ちでしょう。親が彼を必死で売り込もうとしなかったから、後手後手になります。しかし、才能というのは世の中が放っておかないんですね。彼がウィーン少年合唱団の前身に参加していたのは、案外有名な話であるようで驚きましたが。

さて、シューベルトは31歳という若さで亡くなりました。
31歳といえばベートーヴェンが「英雄」を書いた頃です。
つまり、男盛り、仕事盛り、血気盛んな時期です。
如何に、若くして残念な死であったか。
私のようにダラダラ生きてるおっさんと違って彼は天才です。無念だったでしょう。

「もしシューベルトが50歳まで生きたら・・・」

こういう話は「信長が殺されなかったら・・・」と同じですが、非常に興味深いです。31歳までに600曲の歌曲、8つの交響曲、多くのピアノ曲、室内楽、ミサ曲、そしてなんとオペラまで創ったわけですから。オペラまで・・・と驚愕する人は多いでしょう。

そして死因。
梅毒、チフス、水銀を飲んだ、他あれこれ言われていますが、これも分かりません。ただ、梅毒が有力と言われています。

東京イボンヌ次回公演「酔いどれシューベルト」においては、文献の少なさを逆手にとって好きに書かせて頂きました。
シューベルト様に失礼がないか、冷や冷やしつつ。

彼の音楽を聴きながら思ったこと。
やはり彼の音楽は「神がかっている」。
これが私の印象です。

拝啓
フランツ・シューベルト様。

凡人である私はあなたを全く掴めませんでした。
あなたが天才過ぎて、最後まで理解不能でした。
ゆえに、好きに書かせて頂きましたが、心からリスペクトしています。温かく見守って下さいませ。

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