戦略担当・葦田の演劇徒然「内向きの物語世界」

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戦略担当の葦田です。

小難しいことばかり書いていますが、たまには1演劇ファンとして思うことをポツリ。

元々アングラ寄りのテント芝居に始まり、アメリカの高校でショークワイア(ドラマGreeの世界です)に参加、その後日本に戻ってきて新劇の劇団を経由して、小劇場にやってきた経緯の中で、いろんなお芝居や戯曲に触れる機会がありました。

過去から現在に向かって読み進めていて、ふと思ったんです。ある時から、戯曲が何も象徴しなくなったなあと。

最近の戯曲にもたくさん良い物語はあります。
でも80年代くらいまでの戯曲を読むような頭は使わないのです。
何故ならそこで描かれているのは、物語の中の人間関係と状況だけだからです。
紙上の戯曲の外側、その小さな人間関係の外の「共同体」を想像させる構造が無いのです。

かつて権力や体制側をオーウェルの小説にちなんで「ビックブラザー」と呼んだりしたそうですが、もはや個人や半径3Mの人間関係と対比される「ビックブラザー」なんて意識されないのです。
ビックブラザーは死んだ!
内向きの時代、個人の時代。その影響は戯曲の傾向にまで現れているのだなあ、と近頃思うのです。

他方で、さっき言った物語のタイプにはまらない社会派と呼ばれる戯曲群もあります。
悲惨なもの、辛いものをそのまま骨太のドラマに乗せているようなストレートな作りの作品。
これも問題意識がそのままゴロっと寝かされているという意味で、前述のような頭は使わないのです。

つい最近までコクーンで上演されていた唐十郎・作の「盲導犬」。書かれたのは約40年前。
エンディングでは、コインロッカーの向こう側に広がる新しい世界への脱出が示唆され、
不服従の犬ファキイルが権力に服従したヒロインの喉を食い破り、観客の頭を飛び越えて去るのです。

新時代における個人の敗北とも勝利とも読めるあのラストに、何一つ論理的な説明はない。
でも飛び込んでくるイメージがあり、それこそが戯曲の魂なのだと私は勝手に思っているのです。

観てて楽しいお芝居はたくさんあります。
でも戯曲として観た時に、ぐっと刺さる一本が最近はなかなか無くて。

エンターテイメントを志向する限りは、戯曲らしくなくて良い。

ただ言葉にすると逃げていくものも、世の中にはたくさんあると私は思うのです。

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